特別館長の言葉

2018年06月15日 館長の言葉15

人類が発明した最良のものは言葉と映像。
その二つと戯れる場所が前橋文学館。

2018年06月15日 館長の言葉14

前橋文学館は、文字が書かれた紙をガラスケースに入れて展示するだけではなく、声によって空気を震わせ、鼓膜を震わせ、心を震わせることも展示だと考えている。「黙読は意味が伝わる。音読は魂が伝わる。」のだ。

2018年06月15日 館長の言葉13

勇気と夢を後押しする赤城山
鍛錬を与えてくれる空っ風
思い出を呼び覚ます広瀬川
人生と並走する文学館

2018年06月15日 館長の言葉12

「ピクルスはキュウリには戻らない」 そのことを、前橋文学館は子供たちに伝える義務がある。

2018年06月15日 館長の言葉11

面白いから入館者が増えたのではない。
入館者が増えたから、面白いのである。

2018年06月15日 館長の言葉10

歌うことと話すこと、描くことと書くことは、一体いつから別れてしまったのだろう。前橋文学館が、この離れ離れになったものを、引き合わせる場所でありたいと思う。

2018年04月14日 【春は文学館で きゅん。 】3F「寺山修司のラブレター」ごあいさつ

 

 人が、詩や短歌や俳句などの文字列表現をはじめる切っ掛けはなんなのだろう。大切な人との別れや決定的な体験など、心を大きく揺り動かされた時、なにかに押されるように書き始めるのではないだろうか。

 そうした体験のひとつに恋愛があるだろう。万葉集の相聞歌の多さをみればよく分かる。表現の始発駅は恋なのだ。

 ラブレターは、相聞歌の始まりの始まりのような感じがする。

 わたしが寺山さんに出会ったのは、20歳の時だった。寺山さんは30歳。代官山のコンクリート打設のマンションに九條さんと二人で住んでいた。そのマンションが演劇実験室・天井棧敷という劇団の事務所だったのだ。

 当時、劇団員は九條さんのことを「奥さん」と呼んでいた。二人が新婚であったことも、わたしは知らなかった。もちろん、やがて二人は離婚して、寺山さんがマンションを出ることになろうとは想像すらしなかった。

 寺山さんが出て行く時、荷物は劇団員が手伝った。わたしが洋服タンスの扉を開けると、扉の裏側に、九條さんの写真が張り付けてあった。わたしは、見ないふりをして、中の背広をハンガーから引きはがしてダンボールに押し込んだ。あの写真はどうしただろう。今でもその時の写真は思い出す。

 この二人のラブレターのことは、話しに聞いたことがあり知ってはいた。九條さんが

「寺山が、自分の手紙をとっとけって言ってたのよ」

 自分の手紙が後に価値が出るなどと普通は思わない。寺山さんは明らかに自分が後世に名を残すと思っていたのだから凄い。

 だから、このラブレターは、やがて人目にふれることを想定して書かれたものなのである。そうしてみると、これは個人的なラブレターでありながら、個人を超えた表現なのかも知れない。

2018年04月14日 遠さを覗く

 乗り換えることの妙味。

 今回の企画展示「サクタロウをアートする」を一言でいうとそんな感じである。

 サインビークルは、乗り換え自由が前提だ。乗り換えることで乗客である情報はより輝きを増す。

 原画からコピーに乗り換える。コピーしたものをパソコンに乗り換える。パソコンで加工してプリントアウトに乗り換える。それを添付という乗り換え作業で送る。ディスプレイ上でデザインし、紙に乗り換え印刷する。

 最近は、ポスターのような出来上がったものを、携帯で撮影という乗り換えをやって拡散させている。

 こうして、何度もイメージは乗り物を乗り換え、変貌する。変貌は、原画とどのように距離を保ち、かつ遠くへと飛翔が可能なのかを問うことだ。そのバランスの冒険を楽しむことである。

 朔太郎の文字列はどのような乗り物に乗り換えが可能なのか。発想は大胆に。作品は繊細に。距離とバランスの視覚化が、本企画の意図なのである。

 それにしても、言葉が動画に変換され、音楽になり、立体化され、コラージュになり、刺繍や写真になっているのを見ると、逆に詩という文字列表現の可能性を考えてしまうのは何故だろうか。もしかすると、アートの中にこそ詩があるということを示唆しているのかも知れないのだ。

 それは、詩が作品と対立せず、共存しているからなのだろう。詩は多重人格だから、はじめから対立という関係を生み出さないとも言えるのだ。

 この不思議な距離感は新鮮な驚きであった。作品たちも、たぶん驚いていると思う。

  「距離とは遠さを覗こうとすることだ」といったのはハイデガーだ。アートと詩との新鮮な距離。その遠さを楽しんでいただけたらと、切に願う次第である。

(【サクタロウをアートする】ごあいさつ)

2018年02月10日 メッセージ

 不思議なことに、小説やエッセイだと黙読するのに、詩は思わず声に出して読んでしまう。そんなことありませんか。何故か声に出すと本当に読んだ気持ちになる。どうしてなのでしょうか。

 詩人の吉増剛造さんが、黙読すると意味が伝わる、音読すると魂に届くというようなことを書いていました。声に出すという鑑賞方法に、詩という文字列表現の秘密が隠されているような気が、わたしはするのです。

 若い芽のポエムは、今まで多くの詩を世に送り出してきました。多くの人々の魂に、詩の魅力が届いたのではないでしょうか。

 「言語は詩から、社会は遊びから始まった」

と「ホモ・ルーデンス」でホイジンガが言っています。だとしたら、詩はあらゆる表現の母親みたいなものです。大切に育てていかなければならないと思います。若い芽のポエムの歴史は、単にイベントとしての試みではなく、人と言葉との関係を考える大切な時間だったと思うのです。これからも書き続けてください。

 表現することと生きることを併走させる。それが若い芽のポエムの精神だとわたしは思うのです。

 

(『詩のまち前橋 若い芽のポエム 二十周年記念作品集』収載)

2017年12月31日 祖父祖母との出逢い

 「葉子さんと、この店でカラオケした」

 わたしが文学館に通うようになってからもうすぐ二年。その間母親の話題が何度もあった。皆さんとても懐かしいそうに話してくれた。橋の上で若いダンサーと踊る母。深夜のスナックで少女のようにはしゃぐ母。わたしの知らない母親がそこにいて面白かった。

 祖父の話は二度聞いた。祖父と学校が同期だった人のお孫さんから、「おとなしくて礼儀正しい人だった」という話と、散歩している時に出逢った人は、「なにか考え事でもしているのか、うつむき加減だった」ということだった。

 東京でも、一度だけ聞いたことがある。明治大学で祖父の授業を取っていた人の、やはりお孫さんからだ。

 「先生の文学の講義は難しくてよく分からなかったけれど、講義が終わるととても優しい先生だった」という話だった。

 わたしの知らない祖父の実像が浮かんできて身近な存在に思えるから不思議である。

 当たり前だけれど、祖父と離婚した祖母の話は誰からも聞かなかった。子供を捨てた悪女というイメージだから仕方がない。誰か少しでも聞いたことのある人はいないものなのだろうか。

 祖母は孫の私を猫可愛がりした。札幌に住んでいた祖母が東京に引っ越しして来たのは、わたしが小学生の時だった。どんな事情があったのかは分からない。年下の人と結婚していて、子供はいなかった。その年下のおじさんは、働いていなかった。札幌で大きなお屋敷に住んでいて家政婦さんが二人もいたから、きっとお金持ちだったのだろう。わたしはこのおじさんから、写真の面白さを教えてもらった。

 祖母はその後、このおじさんとも離婚して、何年間か一人暮らしをしていたけれど、やがて梅が丘の家に同居することになった。この時の話はいずれ書きたいと思っている。わたしは自分の母親と父親については本を書いた。祖父、祖母については未だ書いていない。そのために、何か知っている人と前橋で出逢う日を楽しみにしているのである。

 

 

 

(「前橋文学館友の会会報」第24号 寄稿 H29.12)

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