館長の言葉

2021年10月09日 【ああ これはなんという美しい憂鬱だろう ムットーニのからくり文学館】ごあいさつ

「ムットーニング」

 文学と音楽の世界を人形カラクリに翻訳する。イメージを物質に変換させる。それがムットーニ作品である。まるで神の領域だ。だからかどうか、ムットーニ作品を観ていると、自分が空から下界を窃視しているような奇妙な感覚に襲われる。艶かしいのだ。どの作品にも、生の実相が潜んでいるのである。

 しかも、その艶かしさの底辺にユーモアが隠蔽されている。神の領域から眺めればあらゆる出来事は喜劇である。ムットーニが愛されるのは、人形の繊細な動き、微妙なライティング、ツイストエンディング的な展開、シュールな舞台美術に通底する喜劇性にあるのだ。

 今回は、朔太郎の世界を表現した新作が加わった。今までにないマルチな構成で楽しませてくれる。ムットーニ王国へのツアーを、ゆっくりと堪能して頂ければ幸いです。

2021年06月19日 【さくたろういきものずかん  朔太郎の世界を闊歩する生物たち】ごあいさつ

  地球に生息している生き物は、ざっと八百七十万種いるのだそうだ。もちろん、調べられないから実数は分からない。深海など調査は難しそうだ。

 地球に限らない。人間の身体の中にどれだけの生き物がいるのか、カウントするのも難しそうだ。腸の中だけでも百兆匹の生物がいるという。人間は沢山の生き物たちと共存して生きているというわけだ。

 そんな仲間の生き物を、詩人はどのように見てどのように表現しているのだろうか。

 朔太郎の第一詩集『月に吠える』には、鼠、亀、雲雀、犬、蛙、鵞鳥、蛤、浅利、みじんこ、バクテリア、猫など二十以上の生き物が登場する。それらの生き物を列記してみると、詩人が詩というものをどのように捉えていたかが炙り出されてくる。詩の中では、生き物が実態を離れて別の何かに変容するのだ。犬が犬ではなく心模様に、猫が病名に変身する。言わば、詩人は言葉と意味を引き離し、言葉の能力の裾野を広げる作業をしているのである。ボードレールの「詩はただ詩のための表現である」というのはそのことを言っているのだろう。詩人にとって、言葉は手段ではなく目的なのだ。

 本展は朔太郎コンコルダンスの入り口に立って、まず「生き物」を手始めに試みたものだ。大人は意味の世界から、こどもはゲームとイメージの世界から入場して、詩人と生き物との関係を楽しんでいただけたら幸いです。

2021年02月20日 【ひらめきときめきどきどききらり 木暮正夫展】ごあいさつ

 あらゆる作品は、時代状況によって、その色合を変化させるものです。時代と並走したり、時代と対立したり、あるいは融合したりと、作品はその時々の状況によってさまざまな表情を見せるものです。

 木暮正夫の作品はどうでしょうか。

 そうです。木暮正夫の作品は明らかに変容しています。政治、経済、文化や宗教の対立が深まりつつある現在、作品が保有する大切な思いが再浮上しています。思い込みを疑い、異形を排斥せず、他者を信じることで未来を夢見る。そんな作品の依拠する故郷を、私たちは今こそ訪ねなければならないのかも知れません。私たちは、希望が一度も死滅したことのない土地の住人なのです。

 難解なことをやさしく、やさしいことをユーモアに変える。そんな木暮正夫の創作の遊園地を、大人は子どものように、子どもは大人のように楽しんでいただけたら幸いです。

2021年02月06日 【変な話をしたい。-第28回萩原朔太郎賞受賞者マーサ・ナカムラ展】ごあいさつ

 毎年、寒風が吹き荒れる時期、前橋文学館に春のいぶきを運んでくれるのが、 この萩原朔太郎賞受賞者展だ。

 今回、二十八回目の受賞者は最年少受賞であるマーサ・ナカムラさんである。

 朔太郎賞が始まったのは一九九三年だから、この時マーサ・ナカムラさんは三歳、 受賞者の谷川俊太郎さんは六十一歳だった。

 受賞者展の楽しみは、未知の表現者、未知の作品との出会いである以上に、新鮮な言葉、斬新な言葉と言葉との反発と融合の現場に立ち会える事だ。展示する文学館にとってその現場をどう再現して展開するかが楽しみの一つであった。二十八回の実験現場であった訳だ。

 今回のマーサ・ナカムラさんが紡ぎ出す字列表現の冒険。そして、今後の大きな飛翔の羽音を、この展示によって少しでも感じていただければ幸いです。かすかな春の足音もぜひ。

2021年02月04日 館長の言葉33

 何故、前橋文学館が地元出身の表現者を取り上げるのか。それは、郷土の誇りを普遍化することではない。もちろん郷里の偉人を観光資源にすることでもない。
 地元出身者をライトアップすることで、文学館は三つのテーマの答えを探っているのだ。
 一つは、「人は一生に一つの背景しか持てない」かどうか。
 もう一つは、人の原風景を顕在化出来ないか。
 もう一つは、「故郷は地理ではなく思想」であるのか。
 これらを、前橋文学館というステージで論証しショーアップして見せる。そのために地元出身者を多く取り上げているのである。
 同郷であることの誇りなど、なんの意味もない。あるのは、故郷という名前の美しい希望である。

2021年01月21日 館長の言葉32

 ひらめきが世界を変えてきた。科学や芸術や政治、医学、みんなひらめきによって大きく前進してきた。
名案がひらめくのは、馬上、厠上、枕上、だと欧陽修は言う。
私の経験だと、これに加えて、路上をあげたい。馬に乗らず、車に乗らず、ひたすら歩く。散歩は、ひらめく確率が最も高いのだ。車は移動を手段にしてしまう。散歩の移動は目的だ。散歩は、見慣れた風景を再発見する。散歩は終着点がないから、いつも途中のまま。だから、アイデアを考えたりするのに最適なのだろう。
買い物には車で、文学館には徒歩で来て下さい。きっと、ひらめきが人生の舞台に舞い降りてきます。

2021年01月18日 館長の言葉31

10年後、もし、前橋文学館が以前のように、なんの工夫もなく、凡庸な企画展示の連続になってしまったら、その予兆はどこにあるのか。腐敗は、どこから始まるのだろうか。
生物は、目、内臓から腐ると言う。美味から腐るのだ。激しく動く部位から腐るのだ。
そうなのだ、文学館は、美味で動く、展示と言う部位から腐り始めるのだ。だから、展示は、常に斬新さを求めないと、あっという間に饐えてしまうのだ。
しかも、当事者には、その腐臭が分からない。気が付かない。そこが一番怖い。
文字列表現は腐るのだろうか。詩は腐るのだろうか。
「事実は生もの直ぐ腐る」
だから、事実をフィクションにしていつまでも新鮮に保て、と寺山修司は言った。
文学館にとってのフィクションとは何か。その答えの中に、腐敗の予兆を探知する鍵がある。

2021年01月15日 館長の言葉30

庭になること

前橋文学館は、街の庭になりたい。
庭は、人が憩う場所、もの思いに浸る場所、行末を考えたりする場所だ。時に庭は「三有の苦果を救わん」ためにあったという。
コロナ禍の今こそ、庭は大事な、重要な場所になるだろう。
都市の庭となるためには、何をどうすればいいのだろうか。前橋文学館のテーマはそこにある。

2021年01月13日 館長の言葉29

薔薇の花束を貰った時、人はどんな反応を示すだろうか。
花びらに手を伸ばす人は居ない。花を数える人も居ない。花の名を口にしする人も少ない。
ほとんどの人は、花が発散する芳しさの実相が知りたくなって、すぐに鼻を近づけるだろう。
いつの日か、文学館のイベントが薔薇の花束になれたら素晴らしい。受け取った入館者が、思わず手にした花束に顔を埋める。本数をかぞえるのではなく、花弁の色を愛でるのでもない。深呼吸し、身体の芯に芳しさのすべてを取り込みたくなってしまう美しく個性的な企画展示。
入館者の一人一人に薔薇の花束を手渡すこと。それが、明日の前橋文学館の目標である。

2020年12月27日 館長の言葉28

 前橋文学館と言う電気コタツは、スイッチの「強」しか使わない。
「強]をオンにしても、結果として展示は、予算がない、人手が足りない、アイデアが出ない、で「中」になる事はあり得る。
しかし、初めから「中」を目指すことはあり得ない。
前橋文学館のスイッチには、「中」と「弱」はついていない。

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