特別館長の言葉

2021年02月06日 【変な話をしたい。-第28回萩原朔太郎賞受賞者マーサ・ナカムラ展】ごあいさつ

 毎年、寒風が吹き荒れる時期、前橋文学館に春のいぶきを運んでくれるのが、 この萩原朔太郎賞受賞者展だ。

 今回、二十八回目の受賞者は最年少受賞であるマーサ・ナカムラさんである。

 朔太郎賞が始まったのは一九九三年だから、この時マーサ・ナカムラさんは三歳、 受賞者の谷川俊太郎さんは六十一歳だった。

 受賞者展の楽しみは、未知の表現者、未知の作品との出会いである以上に、新鮮な言葉、斬新な言葉と言葉との反発と融合の現場に立ち会える事だ。展示する文学館にとってその現場をどう再現して展開するかが楽しみの一つであった。二十八回の実験現場であった訳だ。

 今回のマーサ・ナカムラさんが紡ぎ出す字列表現の冒険。そして、今後の大きな飛翔の羽音を、この展示によって少しでも感じていただければ幸いです。かすかな春の足音もぜひ。

2021年02月04日 館長の言葉33

 何故、前橋文学館が地元出身の表現者を取り上げるのか。それは、郷土の誇りを普遍化することではない。もちろん郷里の偉人を観光資源にすることでもない。
 地元出身者をライトアップすることで、文学館は三つのテーマの答えを探っているのだ。
 一つは、「人は一生に一つの背景しか持てない」かどうか。
 もう一つは、人の原風景を顕在化出来ないか。
 もう一つは、「故郷は地理ではなく思想」であるのか。
 これらを、前橋文学館というステージで論証しショーアップして見せる。そのために地元出身者を多く取り上げているのである。
 同郷であることの誇りなど、なんの意味もない。あるのは、故郷という名前の美しい希望である。

2021年01月21日 館長の言葉32

 ひらめきが世界を変えてきた。科学や芸術や政治、医学、みんなひらめきによって大きく前進してきた。
名案がひらめくのは、馬上、厠上、枕上、だと欧陽修は言う。
私の経験だと、これに加えて、路上をあげたい。馬に乗らず、車に乗らず、ひたすら歩く。散歩は、ひらめく確率が最も高いのだ。車は移動を手段にしてしまう。散歩の移動は目的だ。散歩は、見慣れた風景を再発見する。散歩は終着点がないから、いつも途中のまま。だから、アイデアを考えたりするのに最適なのだろう。
買い物には車で、文学館には徒歩で来て下さい。きっと、ひらめきが人生の舞台に舞い降りてきます。

2021年01月18日 館長の言葉31

10年後、もし、前橋文学館が以前のように、なんの工夫もなく、凡庸な企画展示の連続になってしまったら、その予兆はどこにあるのか。腐敗は、どこから始まるのだろうか。
生物は、目、内臓から腐ると言う。美味から腐るのだ。激しく動く部位から腐るのだ。
そうなのだ、文学館は、美味で動く、展示と言う部位から腐り始めるのだ。だから、展示は、常に斬新さを求めないと、あっという間に饐えてしまうのだ。
しかも、当事者には、その腐臭が分からない。気が付かない。そこが一番怖い。
文字列表現は腐るのだろうか。詩は腐るのだろうか。
「事実は生もの直ぐ腐る」
だから、事実をフィクションにしていつまでも新鮮に保て、と寺山修司は言った。
文学館にとってのフィクションとは何か。その答えの中に、腐敗の予兆を探知する鍵がある。

2021年01月15日 館長の言葉30

庭になること

前橋文学館は、街の庭になりたい。
庭は、人が憩う場所、もの思いに浸る場所、行末を考えたりする場所だ。時に庭は「三有の苦果を救わん」ためにあったという。
コロナ禍の今こそ、庭は大事な、重要な場所になるだろう。
都市の庭となるためには、何をどうすればいいのだろうか。前橋文学館のテーマはそこにある。

2021年01月13日 館長の言葉29

薔薇の花束を貰った時、人はどんな反応を示すだろうか。
花びらに手を伸ばす人は居ない。花を数える人も居ない。花の名を口にしする人も少ない。
ほとんどの人は、花が発散する芳しさの実相が知りたくなって、すぐに鼻を近づけるだろう。
いつの日か、文学館のイベントが薔薇の花束になれたら素晴らしい。受け取った入館者が、思わず手にした花束に顔を埋める。本数をかぞえるのではなく、花弁の色を愛でるのでもない。深呼吸し、身体の芯に芳しさのすべてを取り込みたくなってしまう美しく個性的な企画展示。
入館者の一人一人に薔薇の花束を手渡すこと。それが、明日の前橋文学館の目標である。

2020年12月27日 館長の言葉28

 前橋文学館と言う電気コタツは、スイッチの「強」しか使わない。
「強]をオンにしても、結果として展示は、予算がない、人手が足りない、アイデアが出ない、で「中」になる事はあり得る。
しかし、初めから「中」を目指すことはあり得ない。
前橋文学館のスイッチには、「中」と「弱」はついていない。

2020年12月05日 館長の言葉27

フロイトは、心に驚いた。
マルクスは物に驚いた。
文学館は言葉に驚く切っ掛けの場になればいい。
言葉に驚く事は自分に驚く事である。

2020年10月10日 【なぜ踊らないの-生誕100年記念 萩原葉子展】ごあいさつ

ごあいさつ―パーティー会場のように

 母、萩原葉子を見送って15年が過ぎた。瞬き2、3回しただけのあっという間の時間だった。84歳で旅立ったから、生きていれば今年100歳ということになる。
 その生誕100年という節目に、生まれ故郷で里程標を建てるかのような「萩原葉子展」が開催されることになった。
 今回の展示は、以前の展示と違い、本人が大量に残したコラージュのような作品をライトアップしている。生前、それらの作品群を一同に展示したことはなかった。
  並べてみると、意外にもユーモア溢れる造形作家の一面が浮かび上がってくる。文章よりもずっと自由で天衣無縫な振る舞いが面白い。私たち親子に何かしら共通する気質があるとしたら、平面作品は文章との対峙とは大きく異なり、伸びやかに無邪気に取り組んでいることではないかと思う。
 生前、一度だけ一冊の本を一緒に書いた。私はあまり乗り気になれない企画だったけれど、何か記念になればと、母親が積極的に進めて実現した。今から考えれば、あの本が母親の遺言のようなものだったのかも知れないと思う。
  いや、この展覧会そのものも、実は母親の遺言の展示なのかもしれない、と思えてくる。
 まあ、私としては、空の彼方で、母親がはにかみながら喜んでいると信じるしかない。生前、葬儀もしのぶ会もやらなくていい、というメモ書きを手渡された。あれだけ人を呼んで自分が踊るパーティーを開くのが好きだったのに、死後はひっそりと人に迷惑をかけず旅立ちたかったのだ。
  だから今回の「萩原葉子展」も、母親が踊りを披露する場所だと思うことにした。
 入館者の皆さまにも、パーティーに参加しているように楽しんでいただけたら幸いです。

2020年10月03日 【私が出会った表現者たちⅣおちゃめなアリス 田村セツコ展】ごあいさつ

 世界を席捲したkawaii文化の源流を探る旅に出る。

 すると、みんな必ず田村セツコという故郷と出逢うことなる。

 そう、田村セツコさんが生み出す表現の全てがキューティズムの源流なのである。

 この度、前橋文学館がそのカワイイ文化のみなもとを展示出来た事をとても嬉しく思う。実はイラストレーションだけがカワイイのではない。生き方のなかにカワイイの本質が潜んでいる。その発見が嬉しさを生んだのである。

 田村さんをはじめたくさんの方にご協力いただきスタッフ一同感謝に絶えません。

 いつまでも変わらない表現者のライフスタイルに、観る人はきっと元気をもらえると思います。

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