特別館長の言葉

2017年11月21日 館長の言葉02

過去を知り 今を思う 

前橋文学館は 心のふるさとです

2017年11月21日 館長の言葉01

山から風がうまれ 

川から思い出がうまれ 

人のこころにうたがうまれる 

前橋は、人と人との出会いを育む美しい街

2017年10月21日 「ヒツクリコ ガツクリコ ことばの生まれる場所」ー言葉が人を作る

 人は、耳ではなく言葉で音を聞いている。もちろん、目ではなく言葉でものを見ている。犬はワンワンなどとは鳴いていないのに、そう聞こえるのは、言葉で聞いているからだ。当たり前のことである。
 だとすると、もしかしたら人が芸術とふれあっている時も、言葉によって鑑賞しているのかも知れない。というような素朴な疑問から、美術から、言葉を眺めるとどんなものがあらわれるのだろうか。あるいは反対に、言葉から美術を眺めてみるとなにが見えてくるのだろうか。
 そんなことを根底にして考えたのが、「ヒツクリコ ガツクリコ ことばの生まれる場所」というタイトルの企画展だ。
 会場は前橋にある美術館のアーツ前橋と前橋文学館である。共に前橋市立の施設だ。
 文学館と美術館とが共通のテーマで企画展を開催するというのは全国的にはとても珍しい試みであるだろう。おそらく、2館の観覧者はそれぞれ全く別の層であることは間違いない。同一の企画展を2つの会場で開催することで、新しい入館者の流れが生まれることを期待したのである。
 それにしても、言葉をテーマにした作品は多岐に渡っていて裾野が広い。参加したのは、詩人、造形作家、映像作家、書家、絵本作家、音楽家などである。さまざまな分野のアーティストが試みて居るアプローチだけ見てもなるほどと思えるものばかりで興味深い。
 例えば詩人たちのビジュアル・ポエトリーは全く言葉から意味をはぎ取って、別の意味に近づこうとしている。あるいは書道家が動きや形から言葉の可能性に挑戦しようとしたり、映像作家は言葉を動画の素材としてイメージ豊な世界を生み出したりしている。見ているうちに、「言葉は人間が作りだしたものだけれど、それ以上に言葉によって、人間が作られている」ということを、つくづく実感させられる企画展なのである。

 

(「新美術新聞」寄稿 H29.10.21)

2017年10月20日 おわりに

 沈黙の饒舌。

 これが発声言語を体得した人間にとっての、驚きの発見だっただろう。何しろ黙っている方が遥かに豊かに情報を発しているという事を、初めて理解出来たからだ。

 絵画という表現を体得した人間は、その時何を発見したのだろうか。

 当然、沈黙の饒舌からの類推で余白が浮かび上がる。何もない壁に牛を描いた途端、広い壁は壁ではなくなり、いまだ描かれていない大きな空白に変容する。

 本展は、言わばこの沈黙や余白というものを表現の材料にするとどうなるかという試みである。前橋文学館とアーツ前橋との初の共同企画展は、言ってみれば言葉の発生とアートの発生を考える極めて本質的な試みでもあるのだ。依拠する地点は、アーツ前橋が発声言語と文字、文学館が文字列表現ということになるだろう。

 文字は線である。朔太郎は中学四年時に、

「私ハ一学期間「線」ニツイテノミ考エテ居リマシタ」

 と落第した理由を告白している。教師がこう言ったのだ。

「顕微鏡デモミエナイ、恐ラクダレニモ見エナイ、ソンナ妙ナモノガ宇宙ニアツテ無限無窮ニ延長シテヰル。諸君コレヲ幾何学上デ「線」ト名ヅケマス」

 それは恐ろしいイメージにさいなまれたに違いない。本展の萩原恭次郎、草野心平、東宮七男などの試みも、文字という線との戯れというよりは積極的な線からの逃亡にも思える。

 一方西洋絵画史のなかで、芸術の中心は線という論考はアリストテレス以来常に主流である。絵画の発生の神話的言説に、自分の影を線でなぞったというエピソードがある。絵画は、まず線、その次に色彩の登場だ。

 つまり、本展は言葉や線という共通項を設定し、もう一度根源的な問い「いかに描くか」ではなく「何故表現するのか」を考える企画でもあるのだ。

 さて、人間は本展のような展覧会という試みを体得して、何を発見したのだろうか。沈黙や余白ではない何か。その答えを、本展の表現のなかに見出したいと思うのだ。言わば人間は言語的存在であるという自明の再認識である。

 

(『ヒツクリコガツクリコ ことばの生まれる場所 コンセプトブック』収載)

2017年10月01日 我が家の思い出

 不思議なことがある。夢の中に出てくる家は、今も昔もずっとかわらない一軒の家なのだ。それは、両親が建てた木造平屋の家だ。私はそこで幼稚園から高校卒業まで暮らした。

 しかし夢の中では、今も私はそこにずっと住み続けている。時には屋根の上から空を遊泳したり、大きな蓄音機でレコードを聞いているのだ。

 今から考えてみると、その家はとてもモダンな作りだった。庭は一面の芝生。天然石のテラスには卓球台が置いてあった。応接間はフローリングで白の塗り壁。当時、世田谷の梅丘は一面畑だった。まだ近所には農家が点在していたから、そこにポツンとアメリカ人が住んでいるような家が出現したのだから、近所の人は驚いたのではないだろうか。塀は白ペンキで塗られた木の柵が曲線を描き、赤いバラが絡まっていた。

 一番雰囲気がよかったのは、白壁に作られたニッチだ。白壁に正方形にくりぬかれた空間は、夜になると陰影を生み出して落ち着いた雰囲気を醸し出す。部屋の表情がニッチの影によって一変するのだ。きっとヨーロッパではキリスト像なんかが置かれる空間かも知れない。我が家ではずっと花瓶の花が飾られていた。

 私が中学生のころ、このニッチに彫刻家船越保武作のブロンズ「萩原朔太郎像」が置かれた。母親が船越さんから頂いたのだ。急に部屋全体が画家や彫刻家のアトリエのような雰囲気に激変した。いや、家全体から安っぽい生活臭が消えてしまったのだ。以後、母親は応接間に天井まである本棚を設置したり、天井のライトをやめてフロアスタンドに変えた。驚いたことに、小説家の道を目指すようになったのである。部屋が生き方にまで影響を及ぼしたのだ。

 もうこの家は存在しない。私が今住んでいる家には平凡な木造でニッチがない。昔の写真を見た私の子供が「可愛い、こんな家に住みたい」と言った。「夢の中にはまだ家はあるんだけど親子でも同じ夢は見れないから残念」と私は答えた。

 

H29.10 

2017年09月01日 街には物語が必要だ

 「今この街は何が一番必要なのか」
 「何を作るべきなのか」
 住民が集まってそんな会議をする場面を想像してみた。集会所とか音楽ホールや劇場、公園。それぞれのさまざまな想いが錯綜するだろう。現在わたしが住んでいる地域は、老人ホームが足りないから結論はすぐ出てしまうかも知れない。
 戦後すぐ、全ての物資が不足している時に、金沢の街の住人によって、「今この街に何を作るべきか」の会議が行われた。
 出た結論は、美術大学である。市民ホールでも遊園地でもない。イメージして欲しい。焼け野原のような光景に大学である。芸術や伝統工芸を育む教育こそ、自分たちが暮らす土地には必要だと考えたのだ。衣食住よりも文化という結論はすごい。現在の金沢美術工芸大学がそれだ。今でも、金沢美大の入学式では、この創立の住民の心意気が語られるという。
 先日友人と会うために金沢美大を訪ね、このエピソードを教えてもらった。羨ましかった。創立の物語が校是として生き続けているからである。街の景観作りも独自の決まりを作っている。住民と美大の教授と行政とが一緒に決めているのだ。
 街には物語が必要だ。街を作った人たちの心意気。その物語を伝えることで、街を愛する気持ちを育てるのだ。
 前橋は何を作った街なのか。改修工事が終わった臨江閣だ。
 先日内部を見せてもらった。大勢の人が集まれる広間は圧巻だ。迎賓館として建てられたという話だった。そうなのだ。前橋という街は、まず人を招くための施設が一番必要だと考えたのだ。ここは重要なことだ。家を建てる時に、台所を第一に考える家族がいる。リビングが大事という人もいる。寝室だという人もいるだろう。
 しかし、前橋という家族は、応接間が家のなかで最も大事だと考えたのだ。
 お客様をどう迎えるのか。お客様の寛げる空間を作りたい。その空間を街のシンボルにしたのが前橋というわけだ。おもてなし、とか昨今言っているけれど、前橋は明治17年からおもてなしの心を世界に表明していたのである。

 

 

(「群馬経済研究所」寄稿 H29.9.1)

2017年08月18日 前橋の歴史を演劇にして大広間で芝居ができたら

 一府十四県連合共進会の会場の写真を見て以来、これらの建物が残っていたらどんなに素晴らしかったか、とずっと思っていた。そこには「モダン都市」「デザイン都市」としての前橋がある。臨江閣別館はその共進会の貴賓館。糸で繁栄した時代に、前橋の旦那衆は人をお招きする建物をつくった。つまり、市民の心のルーツに「お招きする気持ち」があったということ。それを今こそもう一度と思う。臨江閣を初めて訪ねたが、外壁や内部構造がそのまま残っていることが重要で、建設当時のデザイン性や風景の面白さを感じる。立体造形やインスタレーションの展示、落語、市民講座などさまざまに活用できそうだ。ひとつ提案したい。前橋の歴史を演劇にして、大広間で芝居をしたらどうか。市長にも演じてもらって(笑)。ぜひ演出をやりたい。演劇にすると、物語が立体的になり、まちの営みの歴史が即座に理解されるだろう。

 

 

 

(「上毛新聞」掲載 H29.8.18)

2017年07月22日 『月に吠える』を見る

 詩集として読むのではなく、『月に吠える』を詩画集として見るとどんな本として見えてくるのだろうか。

 というのも、朔太郎は恩地孝四郎に

「今度の出版は私一人の詩集でなく、故田中氏と大兄と小生との三人の芸術的共同事業でありたい、少なくとも私はさう思つてゐる。それ故、普通の出版物の表装や挿画を画く画家と著者との関係のやうに非肉交的(芸術上で)の無意味なものでなくありたいと思ひます」

との書簡を送っているからだ。

 

 そして、具体的に

「美しい詩画集を出したいのです。(ワイルドのサロメの挿画をビアゼレが描いてゐる。私はああした意味の出版物に非常な同感をもつて居ます)」

と書いている。詩集ではなく詩画集として構想された本だからなのだ。

 

 そこで、カバーを見てみると、田中恭吉の絵「夜の花」が用いられている。この絵のことを『月に吠える』の「挿画附言」のなかで恩地孝四郎が、

「包紙に用ひた「夜の花」は彼自身、もしも詩集でも出すことがあれば表紙にするのだといつたもので、いま、採りてこの詩集に用ひた」

と書いている。

 

 一九九七年に玲風書房から出版された『田中恭吉作品集』のなかに、この「夜の花」はどういう訳か見当たらない。作品としては残っていないのだろうか。恩地孝四郎があとがきで「印刷で止むなく画を損じたけれど」と書いてあるから、本当に残せる状態ではなくなってしまったのかも知れない。

 

 小さい図版なのでよくはわからないが、「[密室9表紙絵]1914・3」という図版によく似たようなものがある。おそらく、遺作の中から恩地孝四郎が発見し、デザイナーの目で決定したのだろう。素晴らしいセンスである。デザインが内容にまで食い込んで、内容と併走しているように見えるからである。

 

 「夜の花」も、カバーの背表紙のタイトルと筆者名もフリーハンドの黒の罫線で囲んである。オリジナルの作品であることの強調だ。

 

 本表紙は罫線がない。本の装丁の意匠としては、罫線はいらないデザインなのだ。

 

 面白いと思ったのは、本表紙は恩地孝四郎の絵で、タイトルが「われひらく」なのだ。カバーが開ききった花で、その後ろがまだこれから咲く花。明らかな意図がこめられた配置である。

 

 詩画集らしい頁構成は、はじめの扉に

 

 

  月に吠える  詩 集

 

 

とある。

 

 つぎの頁にも、今度は

 

 

      月

 

   詩  に

 

      吠

 

   集  え

 

      る

 

 

とあり、作者や序文の筆者、挿画者二名がすべて横書きで表記されている。

 

 なぜ、一番はじめの扉のタイトルが、「月に吠える  詩 集」で、「詩集」が後ろなのだろうか。

 

 これは、最後の頁(「挿画附言」の前で、詩集としての最後)に答えがある。最後が

 

 

  月に吠える   完

 

 

となっているのだ。詩集が上だと、

 

 

 「詩集 月に吠える 完」

 

 

 だけれど、下に詩集がくれば、

 

 

  月に吠える  詩 集

 

  月に吠える   完

 

 

と、文字が揃うのだ。

 

 挿画と文字との関係でいえば、病床で描いたという、薬の紙の絵の対抗頁が

 「あかるき鉢の底より、

 

 われは白き指をさしぬけり。」

になっている。どことなく、細い腕と手のように見える図柄なので、これを選んだのだろう。

 

 最も印象的なのはやはり扉の口絵だろう。前出の画集に収録されているものは、ベースの色は黒だ。縁取りが黒だと、葬儀の黒枠のように感じられる。私が見たのは、地色がダークグレーだ。おそらく、本表紙、見返しがとも紙でこげ茶だから、扉の明度もそれに合わせたのだろう。

 

 対抗頁に文字がなく、絵を見せるだけのものが、扉を含めて五枚ある。この贅沢な印刷の構成が詩画集らしい演出になっているところである。

 

 恩地孝四郎の抽象表現の版画は、後半に三点ある。田中恭吉とは全く異質な作風だが優美な雰囲気のあるいい作品である。その二点に目次で「附録」とわざわざ表記してある。そんなところが恩地孝四郎の立ち位置と人柄を感じさせて微笑ましい。機会があれば、今度は絵と文字の関係を書いてみたい。

 

 

(「詩集『月に吠える』100年記念展 図録」収載)

2017年05月11日 エッセイ「切り口の面白さ」

 研究という行為は、全て過去の出来事を対象にしているけれど、実は今という地平から見た過去だ。五年前に分析した過去と、今年から眺めた過去は別物なのだ。ということは、常に新しい切り口を探し続けることでもあるだろう。

 私は今まで、なにかを研究した経験がない。

 だから、常に新しい切り口を探す苦労を知らない。朔太郎のことも、もちろん研究したことはない。

 ところが、一昨年研究会会長だった三浦雅士さんから、「孫から見た朔太郎」のことを話せと言われ、仕方なく詩集を読んでみた。すると、幾つかの発見があった。

 一番の発見は詩の中に出てくる色彩は白が圧倒的に多いということだった。そこで思い浮かんだのは、朔太郎の幼少期の生活空間だった。病院はカーテン、ベッドカバー、シーツ、布団カバー、枕カバー、壁、看護婦の制服、医者のスタイル、全て白である。だから表現の中の色は白なのだと話した。

 しかし、その後どうも違うのではないかと思い始めた。「広瀬川白く流れ」を例えば、「青く流れ」だとしたらどうだろう。イメージが限定されてしまうのだ。青から逃れることが出来ない。白だと川が白いわけがないのでどの様にも読み手は想像できる。それが白を選択した意図ではないだろうか。

 さらに、白は三原色が全て混合した現象だ。だから、白と表記すれば全ての色を感じることが出来るようになる。それを意図していたのではないだろうか。そんなことも浮かんできた。

 今は全く別のことを考えている。白は西洋に対する憧れの現れではないだろうか。

 例えば、谷崎が描く女性の肉体は全て白い肌である。これは西洋への憧れから出発している。朔太郎の白へのこだわりの中にも、同種の願望が流れているかも知れない。そう思えてきたのである。

 もうひとつは、朔太郎は光のことを白と言っているのかも、とも思えてきた。ガラスの板をこなごなになるまで割ると、白い砂のようになる。あれは光の乱反射だ。広瀬川は光の輪舞によって白くなっているのかも知れない。もちろん正解などないだろう。

 しかし、朔太郎研究会の活動の面白さだけは少し分かったような気がしている。

 これからは、新会長の松浦寿輝さんのもと、新入会員の参加を呼び掛けて、活発な活動を続けてください。面白い研究発表で観客を驚かせてくれることを期待しています。

 

 

(『萩原朔太郎研究会 会報 SAKU』No.82 H29.5.11)

2017年04月15日 表現するということ

 床から天井までの大きな本棚のある部屋。わたしがもの心ついた家は大量の書籍に囲まれている家だった。そんな環境 だと普通は読書家になるはずだけれど、なぜか反発して本はまったく読まなかった。母親が来る日も来る日も机にしがみ ついていたから、文章も書きたくなかった。作文が苦手で国語が嫌いになった。

 小学生の時は、画家になりたかった。当時のわたしのスターは、ムンクとビュッフェだ。近所の画家のアトリエに通った。具象の作家で、今考えると団体系の画家だったように思う。風景や静物や人物を描いている地味で寡黙な作家だった。

 画家の夢は中学で挫折した。学校での授業で名画の模写を強制されたからだ。教師と対立して意欲がなくなってしまった。水彩も苦手だった。

 母親の希望は子供が芸術家になることだったようだ。常に

「仕事しなさい」

と言い続けた。

 仕事とは経済活動ではなく表現活動のことだった。

 だから、わたしが寺山修司の演劇実験室・天井棧敷で役者をはじめた時は喜んだ。森茉莉さんと二人で何回も観に来た。

 劇団を辞めて版画や映像作品を作りはじめた時も反対はしなかった。版画で賞をとった時は、受賞式に一緒に行くと言った。

 その後会社を設立すると、あまりいい顔をしない。会社がどんどん規模を拡大させても

「提清二にはなれないでしょ」

と言った。

「忙しいと仕事が出来なくなる」

と不満なのだった。

 大学の教授になった時も

「その仕事は暇な時間作れるの」

と聞いた。

 暇な時間にちゃんと自分の仕事しなさいというのである。

 今回の展示のタイトルを「仕事展」としたのは、そんな母親の口癖が反映されているのだ。纏めてみれば、少しは仕事してきたように見えるかも知れない。亡き母親に対しての言い訳のような行為でもあるだろう。

 こうして、写真や映像や本を並べてみると、ばらばらなようでいて、ずっと同じ発想で「仕事」し続けていることが自分なりに理解できる。

 たとえば映像作品は、映像で映像を解体するような実験的な試みから、エッセイのような私小説のようなものに激変している。アーティストブックも、コンセプト重視から、日常の記録にみえるものに変容している。

 しかし、その変化も結局は「差異と反復」という言葉に収斂できるように思えるのだ。

 これは、二年前にわたしの個展を見た友人の美学者谷川渥がジル・ドゥルーズのタイトルを引用して言ったことだ。確 かに、わたしは定点観測写真のように、同じものを繰り返し観察することで、わずかなズレを出現させることが好きなの だ。そのズレは時間の痕跡だったり、時間の忘れ形見であったりする。

 変容を観察し変容の度合いを測ることに面白さを見出しているのである。変容というズレのために反復は欠かせない“仕事”なのだ。

 最近の写真は携帯で撮影している。道を歩いていて見かけるものの中から、テーマを設定してシャッターを切る。コーンや“止まれ”のサインや矢印、郵便受け、ミラーに映る自分、靴跡など手当たり次第撮影するので、同行者から嫌われてしまう。そうして一つのテーマが千枚を超えると冊子にしたりしているのである。これも、ズレを発見するための反復行為である。

 今年の三月で教員生活が定年退職となった。そして、今年から文学館との関わりが本格化することとなった。その時期にこうした展示ができたことに感謝を言いたい。この「仕事展」を新たな出発のスタート地点としたいと思っている。前橋文学館を最も有名な人気者にする。それがこれからのわたしの仕事である。

 

 

 

(『萩原朔美の仕事展 図録』寄稿 H29.4)

▲TOP