ノンブルの不思議
2019年11月02日
詩集『死刑宣告』のなかには、いくつかの答えが見つからない事柄がある。
たとえば、リノカットという手法の抽象版画の作者一覧が、「挿画製作者及目次」として本文中に掲載されている。それを見ていくと、不思議なことがあるのだ。
まず、その作家のひとり柳川槐人とペータースという人物が同一作品の作者になっている。共作したものか、二人ではなく同一人物なのかがよく分からない。丸と三角四角を組み合わせた単純な図柄で、わざわざ二人で合作したことを強調するような版画作品ではない。二種類の技法を組み合わせたものでもないのだ。なぜ名前が二人になっているのだろうか。
さらにわからないのは、「挿画製作者及目次」には出てこない挿画がいくつかあるのだ。8、16、139ページの作品だ。目次と照合しても作者名がないのである。一番多い岡田龍夫のものなのか、意図的に無署名にしたのかわからない。
もひとつ謎なのが、富永亥矩のページが0になっているのだ。もしかして、作者の表記のないものはすべて富永亥矩作品なのだろうか。そう思っていたら、印刷のかすれ具合で0ページではなく、8ページかもしれないと思った。8ページには作品があるからだ。紙とインクと活版との相性によって滲みやかすれが出て、それが味になって雰囲気を醸し出す。判読が難しいのは読む側が判断すればいいとは思う。(156ページのノンブルが無い。再版にはノンブルが入っている。)
面白いのはノンブルの表記のしかただ。
扉、「挿画製作者及目次」の後の「序」が(1)ページで(11)ページまで。
次のページ「詩集例言」がまた(1)ページなのだ。これが(3)ページまでで終わり。さらに、「詩集 死刑宣告 目次 詩八十三篇」から(1)ページになるのだ。それで始まるのではなく、さらに詩が始まる扉「装甲弾機」からまた(1)ページと表記されているのだ。そうして最後の詩「露台より初夏街上を見る」の後に、「詩集『死刑宣告』終り」とあり、(161)ページになっている。
次のページには岡田龍夫の文章「印刷術の立体的断面」がはじまり、また(1)ページになっているのである。ノンブルが通しではなく、内容別になっているのは何とも不思議な感じがする。一冊の統一した冊子としてではなく、詩集の前後に製作者からのメッセージなどを加えた。とでも言いたげなノンブルである。
もっとも面白い試みは、本表紙に黄色と赤の透明なテープが貼ってあることだ。どうやったのだろうか。一冊一冊手作業で貼ったのだろうか。透明だから地に印刷された文字を読むことになるのだ。まるでアーティスト・ブックのような、大胆な試みである。
装幀を担当した画家の岡田龍夫は
「もつと大胆に各種の材料(ボロ布や木材や針金)等を使用して、詩破天荒の怪快光芒にしたかつたのだが」
と書いている。透明テープどころの話ではない。針金が紙の上をのたうちまわり、表紙にぼろ布が貼り付けてあったかもしれないのだ。
「我々に未だ大量生産的に大廻転をするだけの器物が具はつてゐない為め、これも遺憾ながら中止した」という。全く現代と同じ状況だ。印刷するという作業工程とクリエーションは常に相反する作業である。そのことを詩集は今に至るまでリアルに表しているのだ。実はこれが『死刑宣告』のなかの答えの見つからない一番の面白い事柄かもしれない。活版印刷で今これだけの複雑極まりないアンカット版の冊子本は出来ないだろう。時代とともに進化したようにみえて、実は一九二五年の『死刑宣告』よりも退化してしまった事柄もあるのだ。
(「萩原恭次郎生誕120年記念展「何物も無し!進むのみ!」」収載)