おわりに

2017年10月20日

 沈黙の饒舌。

 これが発声言語を体得した人間にとっての、驚きの発見だっただろう。何しろ黙っている方が遥かに豊かに情報を発しているという事を、初めて理解出来たからだ。

 絵画という表現を体得した人間は、その時何を発見したのだろうか。

 当然、沈黙の饒舌からの類推で余白が浮かび上がる。何もない壁に牛を描いた途端、広い壁は壁ではなくなり、いまだ描かれていない大きな空白に変容する。

 本展は、言わばこの沈黙や余白というものを表現の材料にするとどうなるかという試みである。前橋文学館とアーツ前橋との初の共同企画展は、言ってみれば言葉の発生とアートの発生を考える極めて本質的な試みでもあるのだ。依拠する地点は、アーツ前橋が発声言語と文字、文学館が文字列表現ということになるだろう。

 文字は線である。朔太郎は中学四年時に、

「私ハ一学期間「線」ニツイテノミ考エテ居リマシタ」

 と落第した理由を告白している。教師がこう言ったのだ。

「顕微鏡デモミエナイ、恐ラクダレニモ見エナイ、ソンナ妙ナモノガ宇宙ニアツテ無限無窮ニ延長シテヰル。諸君コレヲ幾何学上デ「線」ト名ヅケマス」

 それは恐ろしいイメージにさいなまれたに違いない。本展の萩原恭次郎、草野心平、東宮七男などの試みも、文字という線との戯れというよりは積極的な線からの逃亡にも思える。

 一方西洋絵画史のなかで、芸術の中心は線という論考はアリストテレス以来常に主流である。絵画の発生の神話的言説に、自分の影を線でなぞったというエピソードがある。絵画は、まず線、その次に色彩の登場だ。

 つまり、本展は言葉や線という共通項を設定し、もう一度根源的な問い「いかに描くか」ではなく「何故表現するのか」を考える企画でもあるのだ。

 さて、人間は本展のような展覧会という試みを体得して、何を発見したのだろうか。沈黙や余白ではない何か。その答えを、本展の表現のなかに見出したいと思うのだ。言わば人間は言語的存在であるという自明の再認識である。

 

(『ヒツクリコガツクリコ ことばの生まれる場所 コンセプトブック』収載)

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