【榎本了壱「線セーション」展】ごあいさつ

2019年06月29日

 渦巻き。

 最近の榎本了壱の図像に度々現れるモチーフだ。上昇しているような下降しているような螺旋運動。バベルの塔の螺旋階段は、異界へ向かうための眩惑装置である。榎本了壱のエロス的螺旋も、ここではないどこかへ向かうための装置だ。

 大作は、澁澤龍彦の「高丘親王航海記」だ。ここではないどこかを希求する壮大な旅。この物語と対峙するなかで、彼は渦巻きという表現に出逢った。そう私は勝手に解釈している。

 渦巻きの方角、ここではないどこかは、榎本自身の幼年だ。二科展に入選した十代の榎本了壱に、怒涛のごとく荒れ狂った渦巻きが航海を始める。その出発地点が「高丘親王航海記」だったのだ。

 三浦雅士は、処女作はその後の作品によって成長したり衰退する、と言っている。

 だとすると、榎本了壱は、自身の出発点を成長させたくなったに違いない。始まりの成育は終わりの始まりだ。終わりの始まりは、始まりの終わりでもある。始まりも終わりも消失したボルヘス的砂漠の迷宮。

 榎本了壱の絵画の渦巻きを観ていると、眩暈と浮遊感が襲ってくる。それは迷宮の旅の扉を開けてしまったからなのだ。

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