アフォリズムと現在の私

2018年10月27日

 言葉と実態の空白を少しでも縮めようとする作業。それがアフォリズムだ。

 残念ながら、どんな言葉を注ぎ込んでも埋め立て地は完成しない。「人生」という表題で作ってみるとよく分かる。

「人生」

「悩むには長く、楽しむには短い」

「人生」

「出逢って、恋して、別れて、死ぬ」

「人生」

「意味という病との闘病生活」

「人生」

「終着駅は見えている。だけどみんな途中下車する」

「人生」

「出来ることならいい役を演じたい。だけどいい役は与えられない。何故なら演技が下手だから」

 作っても作っても少し言い足りない。ピタッと決まらず不完全さが解消されない。

 だから、また新たな埋め合わせ行為を始めてしまう。着地の見えない繰り返し。「シーシュポスの神話」である。言葉という神の怒りは恐ろしい。

 もしかすると、現存するアフォリズムはすべて一時休憩所で仮眠をとっている状態なのかも知れない。取り敢えず今はこんな感じ。明日になるとまた別の文字列が仮眠所にいる。

 萩原朔太郎と芥川龍之介のアフォリズムも、当然みんな一時休憩のものだろう。書いた時点での表現だ。「去りゆく一切は現在」なのだ。

 だから、何年に書かれたものかを知ると、その後の変容に作家の思考が浮き上がってくる。展示のアフォリズムを読んだ人が、その後の変化を考慮して作り変えると面白いのではないだろうか。作り直すことで、原文のアフォリズムが違った色合いを帯びてくる。

 本展示のように、二人のアフォリズムが並列していると、どうしても共通点あるいは差異を見出してしまうに違いない。朔太郎は、感覚から自由を獲得して創作に入り、理知に着地した。龍之介は、理知から自由を獲得して創作に入り、感覚に着地した。わたしは勝手にそんな印象を持っている。朔太郎の言う「詩人風の作家」と龍之介の「世故に通じた詩人」。この二つにある共通点と差異。この近親憎悪のようなニュアンスの相違が面白さを生むのである。

 ともあれ、アフォリズムは読み手の現在を照射してくるところがスリリングだ。

読んで何にも感じなかったならば、それは自分の現在とアフォリズムとが共犯関係のように共振しなかったのだ。それだけのことである。数年前の自分と今の自分は違う。現在の自分と五年後の自分は別人だ。五年後に同じアフォリズムと出逢った時は共感する、あるいは反発するかもしれない。「人生」とはそんな変容する自分との出会いの場である。

 

(【この二人はあやしい】2F「芥川龍之介と萩原朔太郎-アフォリズムにみる5つのターム-」ごあいさつ)

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