【春は文学館で きゅん。 】3F「寺山修司のラブレター」ごあいさつ

2018年04月14日

 

 人が、詩や短歌や俳句などの文字列表現をはじめる切っ掛けはなんなのだろう。大切な人との別れや決定的な体験など、心を大きく揺り動かされた時、なにかに押されるように書き始めるのではないだろうか。

 そうした体験のひとつに恋愛があるだろう。万葉集の相聞歌の多さをみればよく分かる。表現の始発駅は恋なのだ。

 ラブレターは、相聞歌の始まりの始まりのような感じがする。

 わたしが寺山さんに出会ったのは、20歳の時だった。寺山さんは30歳。代官山のコンクリート打設のマンションに九條さんと二人で住んでいた。そのマンションが演劇実験室・天井棧敷という劇団の事務所だったのだ。

 当時、劇団員は九條さんのことを「奥さん」と呼んでいた。二人が新婚であったことも、わたしは知らなかった。もちろん、やがて二人は離婚して、寺山さんがマンションを出ることになろうとは想像すらしなかった。

 寺山さんが出て行く時、荷物は劇団員が手伝った。わたしが洋服タンスの扉を開けると、扉の裏側に、九條さんの写真が張り付けてあった。わたしは、見ないふりをして、中の背広をハンガーから引きはがしてダンボールに押し込んだ。あの写真はどうしただろう。今でもその時の写真は思い出す。

 この二人のラブレターのことは、話しに聞いたことがあり知ってはいた。九條さんが

「寺山が、自分の手紙をとっとけって言ってたのよ」

 自分の手紙が後に価値が出るなどと普通は思わない。寺山さんは明らかに自分が後世に名を残すと思っていたのだから凄い。

 だから、このラブレターは、やがて人目にふれることを想定して書かれたものなのである。そうしてみると、これは個人的なラブレターでありながら、個人を超えた表現なのかも知れない。

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