変わらないために変わらなければだめだ

2016年12月31日

 今年、全国の文学館が集まる会議に初めて参加して驚いた。ほとんどの学芸員や館長たちが口を揃えて、「入館者が高齢化したので、入館者の人数が激変して困っている」と言うのである。日本の文学館は今どこでも、入館者を求めているのだ。

 私はその発言を聞きながら、何を言っているのだろうかと思った。冗談じゃない。文学館が入館者を求めているのではなくて、入館者が文学館を求めているのだ。それを理解しないから入館者が激変しているのである。  

 原因は単純だ。変わらないことが自分の使命だと思っている怠慢さである。

 例えば、企画展のタイトルだ。

「文豪谷崎潤一郎展」

でいいと思っているのだ。ずっとおんなじ姿勢なのだ。 

 例えばこれが本のキャッチコピーだと、「百年たってもいかがわしい」である。うまい。読んだことがない人がもしかすると興味を持ってくれるかもしれない。  

 従来のタイトルには、

「どうか、文学館に来てください」

というメッセージがまったく入っていないのである。魅力的なキャッチコピーを考える気がないのだろう。

 展示方法も同様だ。何の工夫もしない。相も変わらずかび臭い会場のガラスケースに入った原稿。ガラスの向こう側の写真。机や文具が博物館の土器のように並んでいる。文学館は歴史博物館なのだろうか。

 ようするに、上から目線で展示しているのである。

「どうだ、すごいだろう」

「有り難いだろう」 

 展示がえばっている。そのことになんの疑問を持たない怠惰さ。入館者が高齢化しているなどという無礼な言いぐさはないだろう。高齢化し、硬直化しているのは文学館の頭のほうなのである。

 建物のデザインには求愛と威嚇が内包されている。教会や寺院の正面は威嚇だ。威嚇する必要があるからだ。高級品だけを扱う店も威嚇の必要があるだろう。

 レストランは求愛だ。威嚇する必要はない。文学館は威嚇する必要がない。

 「文学というすごいものを君たちに教えてやる」

という姿勢など必要ないのである。

 ノーベル文学賞がボブ・デュランの時代である。

 当然だけれど、マンガも映画も芸術も歌も、あらゆる表現のなかに文学がある。

 人は、言葉で考え、言葉で聞き、言葉で見ているのである。言葉を粗末に扱うものは粗末な人生しかおくれない。

 「言葉は存在の住居」

だからである。

 今、文学館が文学という文字列表現の可能性を探さなければならない。そうしなければ、文学館は絶滅危惧種として登録されてしまうだろう。

 萩原朔太郎は時代の先端をいっていた。

 だから、前橋文学館は先端を走る宿命を担っている。

 友の会も先端を併走する義務がある。そう思った方がいいだろう。すそ野をひろげるための、友の会ジュニアの創設も急務である。今、文学館は、変わらないために、変わらなければならないのである。今後の友の会の、求愛行為のような活発な活動を期待している。

 

 

(『萩原朔太郎研究会 会報 SAKU』寄稿 H28.12.31)

 

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