朔太郎と惣之助①
2020年05月15日
いまから78年前の今日、5月15日、朔太郎とたったの4日違いのこの日に、この世を去った詩人がいます。
詩人・佐藤惣之助は、「赤城の子守唄」、「湖畔の宿」、「人生劇場」などの歌謡曲の作詞家でもあります。惣之助の詩を知らなくても、これらの楽曲を聴いたことがあるという方は、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。当時は作詞家として、惣之助は西城八十と双璧をなしたほどでした。
惣之助は、明るく朗らかな性格で誰にも好かれるタイプの人物でした。
朔太郎は、彼の才能を高く評価し、お互いに好印象を寄せていたことが、次の手紙から読み取れます。
「何といつ〔て〕も貴兄は、現詩檀(※)に於ける私の最上の知己であり、旦(※)つ最上の権威者でもあるから貴兄の一言は私にとつて非常に重いのです。」
「貴兄は太陽の如く僕は太陰の如しです。この点では全く我々は正反対の好対象です。そしてまたそれ故に、お互に対手の長所が眼につくのでせう。」
(1923(大正12)年2月上旬(推定) 佐藤惣之助宛 萩原朔太郎書簡より)
2人は仲がよく、のちに美人で有名であった末の妹・愛子*と惣之助が結婚し、朔太郎と惣之助は義兄弟となりました。
朔太郎が亡くなったとき、惣之助は友人として家族として、朔太郎の葬儀の一切を取り仕切りました。そして朔太郎について書いた文章が、惣之助の絶筆となりました**。
写真は、惣之助の最後の詩集となった『わたつみの歌』(1941(昭和16)年7月、ぐろりあ・そさえて)です。この詩集の装幀と題僉***は、朔太郎が手がけました。
五月を愛した朔太郎と惣之助****。
数奇なめぐりあわせで二人の詩人を喪った五月。
幸いなことに明日はお休みですね。酒好きだった彼等を想って、今夜は一献いかがでしょうか。
「酒はまだある」*****と。
*
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※原文ママ。
*佐藤惣之助との結婚当時は、「周子(かねこ)」と名乗っていた。
**佐藤惣之助「詩人萩原の死」、詩誌『四季』萩原朔太郎追悼号(昭和17年9月号)、四季社、1942(昭和17)年8月
***(だいせん)書物の題名・題字のこと。(『広辞苑』第七版参照)
****「五月」萩原朔太郎
私の大好きな五月
その五月が來ないうちに
死んでしまつたら
ほんの氣まぐれの心から
河へでも身を投げたら
もう死んでしまつたらどうしよう
私のすきな五月の來ないうちに
(萩原朔太郎「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」『萩原朔太郎全集 第二巻』筑摩書房、1976(昭和51)年より)
昭和十七年(一九四二年)五月十五日脳溢血の発作後、僅か一時間の後に長逝した。彼はふだん良く戯談に「死なば五月」などと言つたが、それが旨く当つたのである。
(室生犀星「我が愛する詩人の伝記(佐藤惣之助)」『室生犀星全集 別巻二』新潮社、1968(昭和43)年より)
*****惣之助の著書に『酒はまだある』(春秋社、1927(昭和2)年)という随筆集がある。