朔太郎忌のこと
2020年05月12日
さわやかな五月の風が吹きぬけていく。そのまま橋を越え、広瀬川の碧の水面ををちらちらと舐めて、明るい交差点へと紛れていった。
萩原朔太郎の詩にはほとんどの場合、陰鬱で退廃的な気配が付きまとうが、朔太郎その人は秋と同様に初夏のこの爽快をこそ好んでいたことが伝わっている。『月に吠える』に収められた〈五月の貴公子〉の頁を開けば、五月の風に誘われて、すまして草原を歩む彼の心持そのものが伝わってくるような気がする。時代そのものは移り変わっても、この初夏の印象はきっと変わっていないだろう、と思う。
しかし変わったものもある。
今年は新型コロナウイルスの蔓延にともない、多くの無念の犠牲が出、世の中そのものも沈黙せざるを得なくなった。そしてそんな中で果敢に戦っている人たちもいる。それぞれの生活が、こんなにもあっという間に侵食されてしまうものだと気付かされ、盤石だと思っていた足元が実は氷だったというようなぐらつきを感じた。
前橋文学館も3月初めに休館を取り決め、開催中の展覧会やイベント、貸館事業の中止を行った。そうして、5月9日に開催予定であった朔太郎忌が取りやめとなった。
本来であれば今年で48回目の開催と相成るはずだった朔太郎忌は、朔太郎の命日である毎年5月11日にほど近い土曜日に催されていた。
催しは、萩原朔太郎研究会の発足に前後して1963年に第1回が執り行われた。また『萩原朔太郎研究会会報』第一号には、1964年の朔太郎忌の事業記録が残っている。これによれば、以下のようであったという。
(前略)会場の公民館は、元は臨江閣と呼ばれた記念的な建物で、前橋公園の一隅にあり、郷土望景詩にうたわれた「波宜亭」の跡に隣接して、朔太郎が音楽会を開いたりしたこともある、ゆかりの多い建物である。(中略)十一日午後、全行事終了後、東京方面の来賓全員、斎藤総彦氏、河原侃二氏を加え、地元在住の故詩人の妹方三人と実行委員有志が同乗して、市役所のバスで、敷島公園の詩碑をはじめ朔太郎郷土めぐりを行ない、恭次郎詩碑や、伊藤信吉氏の生家のそばの明神様にも訪れ、高崎駅まで行つて解散した(後略)
当時の新聞を見た地元の人々の関心が高まって、「記念のつどい」には、約二五〇人という想定以上の人数が参加したという。
東宮七男、伊藤信吉の言葉に始まり、村野四郎や那珂太郎らが「回想と所感」を語るほか、生前の朔太郎自身による詩の朗読、三好達治による講演録音の再生、朔太郎が主宰していたマンドリンクラブによる演奏など、充実したプログラムだった事がうかがえる。
さて、第48回目となる朔太郎忌のテーマは、昨年に連載を完結した清家雪子氏作のコミックス作品『月に吠えらんねえ』にフィーチャーした「月に吠えらんねえ in 前橋」と題して、同作収録のエピソードを再編集した脚本によるリーディングシアターや、作者と松浦寿輝氏を招聘して対談を行うものであったが、これらの企画は来年度へと繰り越しになる予定だ。リブート作品が連載中でファンも多いだけに、同テーマを楽しみにしていた人も多いだろうと思う。今から来年が待ち遠しい。
来年。
来年はどうなっているだろう。漠然とした不安がないでもないけれど、あたたかい屋外ではそれもいったん和らぐから不思議だ。このところ、急に日差しが高くなった。また風が吹いてくる。群馬は強風が風物詩でもあったな、と思い至る。この風が悪いことを何もかも彼方へさらってしまえばいいと思う。今はただただ事態の終息を待っている。