秋と漫歩

2017年11月24日

 11月も終わりに差し掛かり、文学館周辺もすっかり肌寒くなりました。色付いた落葉が朔太郎像の上に散ってくる様子は、「さびしい人格」(『月に吠える』)の、“ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。”という一行を彷彿とさせます。

 秋といえば、1935(昭和10)年11月に「週刊朝日」に掲載されたエッセイ「秋と漫歩」(『廊下と室房』1936年所収)には、朔太郎が四季の中で秋を最も愛していたということが綴られています。またこの随筆において、自身の散歩趣味についても言及しています。ただの散歩ではなく、人の行き来する雑沓の中をあてどなく歩き、丁度いい場所を見つけては休憩し、長時間ぼんやりと坐って群集を眺めて居る。というのが朔太郎流。以下に一部引用いたします。

 

 だが私が秋を好むのは、かうした一般的の理由以外に、特殊な個人的の意味もあるのだ。といふのは、秋が戸外の散歩に適してゐるからである。(中略)

 多くの場合、私は行く先の目的もなく方角もなく、失神者のやうにうろうろと歩き廻つてゐるのである。そこで「漫歩」といふ語がいちばん適切してゐるのだけれども、私の場合は瞑想に耽り続けてゐるのであるから、かりに言葉があつたら「瞑歩」といふ字を使ひたいと思ふのである。

 私はどんな所でも歩き廻る。だがたいていの場合は、市中の賑やかな雑沓の中を歩いてゐる。少し歩き疲れた時は、どこでもベンチを探して腰をかける。この目的には、公園と停留場とがいちばん好い。特に停車場の待合室は好い。単に休息するばかりでなく、そこに旅客や群集を見てゐることが楽しみなのだ。時として私は、単にその楽しみだけで停車場へ行き、三時間もぼんやり坐つてゐることがある。それが自分の家では、一時間も退屈でゐることが出來ないのだ。(中略)

 秋の晴れ渡つた空を見ると、私の心に不思議なノスタルヂアが起つて來る。何処とも知れず、見知らぬ町へ旅をしてみたくなるのである。

 

 朔太郎は秋を愛し、秋を主題とした作品を詩歌や随筆に数多く残しました。また、作品の登場人物が逍遥する場面が頻繁に描写されているのを見ると、このような朔太郎の散歩趣味(朔太郎風に言うと漫歩、瞑歩)は創作の源と言えるのではないかと思います。

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