若山牧水が来橋した日
2017年06月02日
今から98年前の大正8年6月2日、上州の旅の途中であった若山牧水が、ふと思い立ち前橋の朔太郎のもとを訪れました。
朔太郎と牧水の交流は、大正3年に上京した朔太郎が牧水の家を訪ねたことに端を発します。
牧水が創刊した「創作」は、当時全文壇の注目を集めた文芸雑誌でした。そんな「創作」に大正2年から作品が掲載されるようになった朔太郎は、翌年10月に上京し、牧水の家の門を初めて叩きました。
それから5年後の6月2日、牧水が朔太郎を訪ね再会を果たします。朔太郎は大いに喜び、半日も語り続け、昼飯を御馳走したといいます。牧水は体調が悪かったので朔太郎の父密蔵が処方した薬を飲み、翌日榛名山へと旅立ちました。
またあるときに、牧水が前橋を訪れたときのことを、朔太郎は、牧水の没後「創作」(昭和3年12月号)に寄せた追悼文「追憶」で次のように回想しています。
(前略)
或る年の九月頃であつたが、僕が折あしく外出してゐるところへ、飄然と牧水氏が訪ねて来て、玄関へ取次ぎを乞はれたのである。僕の父が出て来てみると、見知らぬ薄汚ない風采をした、一見乞食坊主※1のやうに見える男が――と父は後に僕に話した――横柄にかまへて「朔太郎君は居ますか」と言つたので、てつきり何かの不良記者かゆすりの類と考へ、散歩中の不在を幸にして、すげなく追ひ帰してしまつたさうだ。後に父からそれを聞いて、僕は風采から想像し、或はその乞食坊主※2が牧水氏でないかと思つた。それで父に向ひ、その人の名を聞いたかと問うたところ、聞いたと言ふ返事だつた。
「若山とは言はなかつたでせうか?」
「さう……たしかさうだつた。」
そこで僕は吃驚してしまつた。
(中略)
「何故止めておかなかつたのです。あの人が有名な若山牧水ですよ。」
「なに? あれが歌人の牧水か? あの有名な若山牧水だつたのか?」
と言つて父もにはかに吃驚し、急に大騒ぎを始めたけれど、もはや牧水氏の行方はわからなかつた。
朔太郎は、気の毒な事をしたと思いつつも牧水のそんな飾らない風貌に「ユーモラスの微笑を禁じ得なかつた」と懐かしんでいます。
ともに酒好きであったふたり。また、朔太郎は牧水を「自然で、純朴で、愛すべき人物」「真に叙情詩を本質してゐる人」と称賛しています。交流こそ少なかったけれども、一たび会えば相通ずるものがあったのかもしれません。
※1、※2 当時の様子を窺い知る表現としてそのまま使用しています。