【第32回萩原朔太郎賞受賞者 最果タヒ展「愛を囁くのは世界の方で、私たちはそれを二人で聞いている。ここで、二人で真珠になろう。」】
2025年06月07日
隠れていると、〝見つからなければいい〟と思う気持ちと、反対に〝見つかりたい〟という気持ちもどこかにある。子供の頃のかくれんぼ遊びだ。
言葉は待ち伏せしている、と誰だったか詩人が書いていた。詩を読むことは、かくれんぼの鬼になることと感じたことがある。懸命に探さなければ、隠れている言葉は見つからない。
しかし、実は、言葉は探し当ててもらいたがっているのだ。見つけて欲しいと密かに思って、じっと隠れ、息を潜めているのだ。
詩集は、かくれんぼの鬼の為の手引き書みたいな役割があるかも知れない。あるいは詩を読むという行為は、かくれんぼに参加することかも知れない。
最果タヒさんの詩は、読み手が待ち伏せしている言葉を探し当てて、出会った言葉と抱き合い、涙目になり、笑い合い、励まし合う。そんな姿が浮かんでくる作品ばかりだ。
だから、私は最果タヒ詩集は、声に出して読む方がいいと感じている。黙読は理解するのにはいい。音読は人の心を揺り動かすのにいいと、吉増剛造さんは言っている。声に出すことで、聞いている人の心に火をつけ、自分という他人の心をも揺さぶるのだ。
よく、「言葉で表すことが出来ない」などと発言する人がいる。それは散文の世界に住む住人の発想だ。言葉の数よりも心のありようの方が無限だと感じているわけだ。韻文の住人は、言葉の組み合わせによって無限の言語表現が出現することを知っているから、そんな発言はありえない。
だから、人の心の全てが最果タヒ詩集の中にあると言うことだ。それは、言葉の中にしか心はないということでもある。私のお墓は私の言葉であれば充分、と言って亡くなった詩人がいた。韻文家は誰でもそんな想いを抱いているに違いない。その意味では、最果タヒ詩集は全て墓碑かも知れない。
だから、詩人が世間に姿を現さないのは当たり前なのだ。時に読者は、それぞれの最果タヒ像を思い浮かべ、消去し、また想像し削除する。どこにでも居て、どこにも居ない。今回の展示の中にも、居るだろう。そして居ないだろう。その不思議なリアリティを楽しんでいただけたら幸いである。