【萩原朔太郎生誕140年記念展「ふらふらふらぬ~る 朔太郎の危険な散歩】
2026年06月13日
手段か目的か。
同じ歩くにしても、目指す場所がある場合と、ぶらぶらとでは別種の行為だ。
散歩は歩く事が手段ではなく目的だ。散文は言葉が手段。詩は言葉が目的。それと類似している。
だからというわけではないけれど、詩人に散歩はよく似合う。
朔太郎の散歩には垂直性と水平性が混在している。歩いているうちに突然閃きが降りてくる。表現する者なら誰でも一度は経験する、あの創造神降臨の瞬間だ。馬上、枕上、厠上という三上のひらめきの中に、道上がないのはおかしい。(笑)
水平性は、場所との出会いだ。変わらない光景との出会いは、変わり続ける自分との出会いである。「人は手によって書くにあらず、よく書こうと思うなら、足によっても書かねばならない。足は優れた、おそらく最も確かな証人である」と言ったのはニーチェだ。水平移動の散歩は、足による執筆行為なのだ。道は原稿用紙なのである。
朔太郎の散歩コースの中に遊園地がある。遊園地の乗り物は、みんな回転する運動だ。散歩も、家から出発して家に戻る回転運動だから、立ち寄りたい気持ちはよくわかる。
ただし、毎日のルーティンの散歩は、回転運動のように見えて、実は螺旋運動だ。ゆっくりと次元が変わり続ける。その変容する散歩の実相を探るのが、この企画展である。お帰りの際に、ゆっくりと散歩しながら帰宅して光景を楽しんでもらえれば嬉しい。きっと、新鮮な街との出会いがあると思うのです。