特別館長の言葉

2019年04月20日 【定点観測展 萩原朔美の仕事vol.2 】ごあいさつ

 広瀬川は、もちろん同じ川ではない。毎日生死を繰り返している。「パンタレイ」万物流転であり、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」である。

両岸に咲いている櫻は、散るから花見したくなるのである。

死のメタファーは最も人を惹きつける。愛でているのは美しい花ではなく、美しい死なのだ。でなければ、花見がこんなに盛んなわけがない。

 定点観測という方法は、写真を使った死の観察だ。神の視線のシュミレーションである。どんな悲劇も、神という距離から眺めれば喜劇である。

 だから、定点観測写真は、時におかしく、悲しいのである。

 今回の仕事展は、定点観測写真と、定点観測的な発想から生まれた動画を展示した。こりもせず、あきもせず、長年続けたチリの山を展示して廃棄すれば、また何か新しく作り始められるかも知れない。そんな思いを含んだレクイエムが流れる展示でもある。たのしんでいただけたら幸いです。

 

 

2019年04月19日 館長の言葉23

今日は人生史上一番歳をとった日だ。
だけど、前を向けば今日は自分史上一番若い日だ。新しいことにチャレンジするチャンスが今日だ。

2019年04月12日 館長の言葉22

お花見の魅力。それは、もちろん櫻は散るからだ。咲き誇るときが終りを内包している。それが美しいのだ。人を最も魅了する鑑賞は、死のメタファーである。
だから、あらゆる表現のテーマは死なのだ。前橋文学館が、人の心を打つ死を展開すれば、美しい前橋文学館が生きたことになるのである。

2019年04月12日 館長の言葉21

前橋文学館は私たちの既知ではない。常に私たちの未知である。

2019年04月06日 館長の言葉20

前橋文学館は、今、最新の過去を作っている。
まだ出逢った事のない人に、長い手紙を書いている。

2019年04月02日 館長の言葉19

よい企画展示とは、これ以上はないような完璧な展示ではない。次の展示のヒ ントになる、新しい発展可能な胚芽を持った空間。それが、よい企画展示である。

2019年04月02日 館長の言葉18

前橋文学館に完成という言葉はない。未完成ではない。初めから完成を目指し ていない。常に前進を夢みているから、前橋文学館は非完成なのである。

2018年12月20日 館長の言葉17

前橋文学館は、言葉の育種家。人の心に響く美しい言葉の薔薇を育てたい。

2018年10月27日 アフォリズムと現在の私

 言葉と実態の空白を少しでも縮めようとする作業。それがアフォリズムだ。

 残念ながら、どんな言葉を注ぎ込んでも埋め立て地は完成しない。「人生」という表題で作ってみるとよく分かる。

「人生」

「悩むには長く、楽しむには短い」

「人生」

「出逢って、恋して、別れて、死ぬ」

「人生」

「意味という病との闘病生活」

「人生」

「終着駅は見えている。だけどみんな途中下車する」

「人生」

「出来ることならいい役を演じたい。だけどいい役は与えられない。何故なら演技が下手だから」

 作っても作っても少し言い足りない。ピタッと決まらず不完全さが解消されない。

 だから、また新たな埋め合わせ行為を始めてしまう。着地の見えない繰り返し。「シーシュポスの神話」である。言葉という神の怒りは恐ろしい。

 もしかすると、現存するアフォリズムはすべて一時休憩所で仮眠をとっている状態なのかも知れない。取り敢えず今はこんな感じ。明日になるとまた別の文字列が仮眠所にいる。

 萩原朔太郎と芥川龍之介のアフォリズムも、当然みんな一時休憩のものだろう。書いた時点での表現だ。「去りゆく一切は現在」なのだ。

 だから、何年に書かれたものかを知ると、その後の変容に作家の思考が浮き上がってくる。展示のアフォリズムを読んだ人が、その後の変化を考慮して作り変えると面白いのではないだろうか。作り直すことで、原文のアフォリズムが違った色合いを帯びてくる。

 本展示のように、二人のアフォリズムが並列していると、どうしても共通点あるいは差異を見出してしまうに違いない。朔太郎は、感覚から自由を獲得して創作に入り、理知に着地した。龍之介は、理知から自由を獲得して創作に入り、感覚に着地した。わたしは勝手にそんな印象を持っている。朔太郎の言う「詩人風の作家」と龍之介の「世故に通じた詩人」。この二つにある共通点と差異。この近親憎悪のようなニュアンスの相違が面白さを生むのである。

 ともあれ、アフォリズムは読み手の現在を照射してくるところがスリリングだ。

読んで何にも感じなかったならば、それは自分の現在とアフォリズムとが共犯関係のように共振しなかったのだ。それだけのことである。数年前の自分と今の自分は違う。現在の自分と五年後の自分は別人だ。五年後に同じアフォリズムと出逢った時は共感する、あるいは反発するかもしれない。「人生」とはそんな変容する自分との出会いの場である。

 

(【この二人はあやしい】2F「芥川龍之介と萩原朔太郎-アフォリズムにみる5つのターム-」ごあいさつ)

2018年06月15日 館長の言葉16

「言葉は存在の住居」だとしたら、図書館、文学館は住居を支える大地である。

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