萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館

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2018年01月09日 麗らかな

 1915(大正4)年1月9日より、北原白秋が朔太郎を訪ねて前橋に一週間ほど滞在しました。その時の経緯は「地上巡礼」2巻2号(1915年3月)に白秋が書いた「編集室夜話」に詳しく、

 

 一月の九日頃、何の気もなく銀座を歩るいてゐた私は、ふいと前橋の萩原朔太郎君に逢ひ度くなつて、上野へ飛んでゆき、同君に打電して置いて、すぐ汽車に躍り込んで了つた。(中略)萩原君は高崎まで迎ひに来てくれた。それから前橋に着いて、私は七日ほどすつかり私の書斎を忘れて暮した。そのうちに尾山篤次郎君がまた私を追つて来たのである。その前橋では一夜牡丹雪が降つた。さうして赤城をはじめ妙義、浅間、榛名、相馬の連山が雪で真白くなつた。山は皆鋭角をなしてゐる。その中に白い浅間の天辺から白い煙が麗らかにのぼる。空をゆく雲は正覚坊となり卵を落とす。何ともいへない眺めである。それが忘れられないで、東京へ帰つてから、前橋の「侏儒」の人たちに絵を描いて送つた。而して私自身には麗空といふ詩を作つた。

 

と書いています。同誌に収録された「麗(うら)らかな、麗らかな、…」という節がくり返されるこの「麗空」を読むと、この時白秋が感じた澄み渡った心持が伝わって来るようです。白秋は後年、この当時を回顧して「麗らか時代」と呼んでいます。朔太郎は、白秋が自分に「フイに小生に逢ひたくなつて来」たことにいたく感激し、「あなたに抱きつきたいやうに思つた。何といつても二日や三日では帰さないと思」ったと白秋宛の書簡に綴っています。

 またその時の2人の様子は、朔太郎が、前橋出立後の白秋に宛てた別の書簡からも読み取れます。

 

(前略)

 此の一週間は小生にとつて最も愉快な最も光栄ある最も記録すべき週間でした、生れて始めて私はうららかの気分を感得することが出来ました、私の生活の新しいレコードを作ることが出来ました、

 貴下に対する敬愛の情は今やその極点に達して居ます、私は今までこれ程へんな気がしたことはありません、

 今朝起きて見ると私一人なのが不思議でたまりません、

 病気が治り次第すぐにも東京へとんで行きたく思ひます、例の痴話狂ひの一条は考へ出すと冷汗が出ます、(略)

『萩原朔太郎全集』第13巻(筑摩書房)

 

 ある日、新玉という前橋で名の知られた蕎麦屋で呑んだとき、白秋と朔太郎の詩論が白熱しすぎて、白秋が杯を投げつけ朔太郎が涙を流したという一幕があったようで、それを指して朔太郎は「例の痴話狂ひの一条」と言っています。

 

 また『犀星随筆集 文学』(1935年9月 三笠書房)収載「文学的自叙伝」によると、室生犀星はその件で頭に血が上ったのであろう朔太郎からとんでもない電報を受け取っていたようで、

 

 或日、前橋市の萩原君から飛報があつて、北原白秋、前橋に来る、いま我々は歓迎に忙殺されつつありなどといふ通信が来て、けふは何処で呑んだとか言つて来たりした。北原君は萩原君の家に泊つてゐるらしい容子であつた。二日程経つと「キタハラハクシウ、ナグレ」といふ電報が着いて、酔つぱらひの二人が遂々喧嘩までしたことが分つた。

 

と、書いています。犀星が心配して白秋に手紙を出したりしていると、再び朔太郎から電報が届きます。その内容は「仲直りしたから安心してくれ」というものでした。ひと騒動あったものの、朔太郎は白秋のこの突然の来橋によってますます白秋に魅了されたと見え、再びの来橋を催促する旨の手紙をしばらくの間差し出し続けました。

 

 本日は前橋市の初市のため、前橋文学館は無料開館日となっています。白秋が滞在したという離れ座敷は、文学館向かい側の萩原朔太郎記念館内にございますので、文学館にお越しの際はぜひお立ち寄りください。

朔太郎記念館:離れ座敷内観

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